TERU 2003 - 1

    

 

 

 Vocal、Keyboad 担当 TERU 本名 野田輝男 

1967年9月、3代続く薬剤師の家庭に生まれる。

幼少の頃からエレクトーンを習い、幼くして音楽に目覚めるも、夏の定期演奏会でお菓子とジュースを飲みすぎてお腹をこわし、演奏するどころではなくなり、いよいよというところだったが、その事が原因でやめてしまう・・・・。

そんなところから始まる?彼の魅力とエピソードを年代を追って詳しく探ってみよう。

 

7つ年上の姉の影響でフォークやロック、Queen,Led Zepperin、Beatlesなど幼い子どもには理解できないジャンルも

潜在的に聞いており、彼の世代の音楽に加えて60‘s、70’s と一つ上の世代の音楽をも手に入れることで彼の幅広い音楽センスを作り出しているといっても過言ではない。

そして10歳でYMO(Yellow Magic Orchestra 坂本龍一・高橋幸宏・細野晴臣 音楽シーンを変えた3人である)に目覚め、Deepでコアなテクノサウンドに没頭し、絶妙のシンセアレンジや規則正しいリズム感、隠された低音に酔いしれること

しばしばであったようだ。今でもYMOをこよなく愛してやまない彼の第一歩である。(その頃から本物を聞き分けることのできた彼の潜在能力には圧巻でもあるが・・・。)

 

15歳でシンセサイザー (今では名機の KORG Mono/Poly、Poly800、Roland SH-101 など )、ドラムマシン (その当時としては珍しいPCM音源のリアルタイムドラムマシン KORG KPR-77) など多彩な楽器をあやつり、

ここでもYMOの影響を強く受ていることわかる。

その当時に残された、今の彼のバックボーンともなる「謎のテープ」を聴いてみると、耳コピーでの演奏はもちろん

オリジナルに至ってはその豊かな表現力に加え想像力も多彩でクリエイティブあることがうかがい知れる。

自作のテープエコー(現在のデジタルディレイ)、擬似マルチトラック録音などを駆使した重厚なシンセサウンドは

現在のテクノロジーを持ってすればなんのことは無いものであるが、その当時は高価なもので手に入らず、それを自作でやってのけたあたり、「なかなかやるな」と思えるのだが・・・、いかがだろうか?

 

17歳、いよいよバンド結成、自由な遊びの中で作曲するスタイルはこの頃芽生えたのだろう。その当時を振り返る音源は残されていないが、バンドコンセプトを記したものや詞が書き綴られたものに目を通していると、遊びの中にある自由奔放な作曲・作詞センスが手に取れるようだ。

しかし、その後の学園祭のバンド演奏会で、たまたま同じ楽器を操り、自分より上手なキーボーディストに出会い

ショックを受けバンドは解散、音楽活動もシンセサイザーもやめてしまう原因となる。「受験を控え、音楽活動はこれで終わりに思えた瞬間でした」と彼は語っているが、ここに次へのステップが隠されていたのだ!

なんとショックをうけたバンドのドラマーが怪我をし、次の日のバンド演奏会への出場が危ぶまれ、彼に急遽ドラムマシンをプログラミングするよう依頼があり、そのままセッションに参加する事になる。ドラムマシンが刻む正確なリズムと彼が強く影響をうけたYMOのドラマー、高橋幸宏のシュアでクールなドラミングを忠実に再現したと思われる、パットを駆使した「おかず」の即興的演出・・・。このことが彼を新たな方向へと導いた。

 

大学入学と同時にバンドを結成し、Vo、G、Ba、Key、Drのフルバンドを結成。そこで彼が選択した楽器は・・・・・、「Drums」であった。ライト感覚のヘビメタを目指したコンセプトをもち、Van Harenなど外タレのコピーを主に演奏し、1年ほど活動を続ける。彼はドラムマシンを耳コピで入力できるほどに成長した正確なリズムを軸に、リアル楽器ならではのうねり、多彩な「おかず」を習得し、ボーカルを高揚させるメリハリの効いたドラミングでバンドレベルも高く解散が惜しまれた。(現在のLa-Vita Boy‘sでもそのパンチあるドラムサウンドを聞かせてくれる)

そしてここからが新たな方向転換の時期に入り、彼の音楽センスに彩をそえるものになる。  

LAVITABOY'S OFFICIALSITE
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